3月13日〜14日 小旅行 その③

 3月14日

昨日の雨に比べて

すっごくイイ天気!松山市内のお寺めぐりが

本日のメイン!


 ちょっと気になる

細長い半島「佐田岬

ホテルの女将さんに聞くと

先端までは2時間要し、佐田岬灯台までは

駐車場から20分ほど掛かるとか?

 となると

とりあえず、行けるところまで行ってみようと・・・。

佐田岬半島

四国の最西端に位置し、瀬戸内海と宇和海を隔てる

日本一細長い半島。岬13里と言われ、約50km。


佐田岬の休日


 「せと風の丘パーク

 県立自然公園権現山からデッカ高原の間約1.6kmに渡って立ち
ならび、強い風を受けて巨大な翼を回し続ける美しい11基の風車
を見ることができます。また、展望台からは穏やかな宇和海
瀬戸内海の青い海、佐田岬半島の山々など雄大な景観が360度で
眺望できます。


 春霞の中

景色はホント遠くにかすみ

でも、雲の中にいるみたいだったですよ・・・。









 結婚前に

やっぱり大きな羽根の前で写真を撮ったっけ!

お腹のあかちゃんといっしょに

記念写真「パチ!」










 伊予灘SA

「県民ショー」で紹介された

新名物なんですか?


 『じゃこカツ』っていうんですって!

カレー味とレギュラータイプを購入。

意外とこれが美味しいんですよぉ・・・。





第53番札所 須賀山正智院 円明寺 本尊/阿弥陀如来 宗派/真言宗智山派



 四国遍路に関心の深かったアメリカのスタール博士は大正十三年
に八十八ヵ所を巡拝するが、円明寺の本尊厨子に打ちつけてあった
鋼板の納札を高く評価した。以来円明寺納札のある寺として知れ
わたり、スタール博士は「お札博士」といわれた。この納札は慶安
三年(一六五〇)京都の住人家次が巡拝中打ちつけたもので、遍路
の歴史を知る上で貴重な資料といえる。厨子内に安置されている
ご本尊は、行基菩薩作の阿弥陀如来天平勝宝元年(七四九)
聖武天皇の勅願により、和気西山の海岸に創建され、寛永十年
(一六三三)現在地に再興された。松山の郊外とはいえ、民家に
囲まれた町なかの寺。山門、楼(中)門、本堂、大師堂、観音堂
が狭い境内に建ち並ぶ。河野家の遺臣たちの追善供養のために建立
された観音堂には十一面観音像が奉安されている。境内の片隅に
マリアの像を浮き彫りにした石塔があり、キリシタン禁制の名残
をとどめている。


 寛永年間(1624〜1644)

に建立された「キリシタン灯篭」






第52番札所 瀧雲山護持院 太山寺 本尊/十一面観世音 宗派/真言宗智山派









 太山寺への途中に道後温泉がある。万葉集に「伊予湯」とある
ように古くから霊泉として知られ遍路もこの霊泉で旅の疲れをいやす。

 松山は四国一の人口を有する県都。人々で賑わう市街を抜けて西へ
向かう。寺は瀧雲山の中腹にあり、高浜港と背中合わせになっている。
山門からは杉の大樹が並び、登り坂の参道に本坊や、遍路宿の面影を
とどめる民家があり、急な石段を登り仁王門を入ると、正面に嘉元三年
(一三〇五)再建の本堂(重文)がある。用命天皇の二年、豊後の国
の真野という長者が、大阪へ向かう途中、高浜沖で難破しようとした。
ところが信仰していた十一面観世音に救われたので、報恩のため一寺
を創建し、その尊像を安置した。後に聖武天皇をはじめとする歴代天皇
の勅願で十一面観音像を奉安している。境内には開基の真野長者を
まつる長者堂があり、毎年三月十七日に長者の供養が営まれる。
大師堂は一段高いところにあり、遍路の接持のための茶堂もある。








第51番札所 熊野山虚空蔵院 石手寺 本尊/薬師如来 宗派/真言宗豊山派


 「石手寺」さんには以前うかがったことがあります。

道後温泉に行って

四国八十八箇寺の雰囲気を初めて知ったお寺さんです。














 四国観光のメッカだけに道後の湯治客もまじって賑わい、門前には
名物の草餅を売る店が並び繁昌している。仁王門までの回郎は絵馬堂
にもなって句や連歌、能役者などの名前を書いた額が納められている。

 縁起によれば、道後湯築城主河野息利の妻が男児を生んどがその子
は生後三年たっても左の手がひらかず、安養寺の住職が祈祷したら手
をひらき、「衛門三郎再来」の小石がころげ落ちた。その子は息方と
名づけられ十五歳で家督をついだが、この子こそ天長八年十月、十二
焼山寺の山中で亡くなった衛門三郎の生まれかわりなのである。
やがて安養寺を石手寺に改め、この石は寺に納められた。寺の草創は
聖武天皇神亀五年(七二八)伊予大守越智玉純が勅を奉して鎮護
国家の道場として伽藍を建立し、安養寺と名づけたことにはじまる。
ご本尊の薬師如来天平元年(七二九)行基菩薩の開眼。現存の本堂、
三重塔、仁王門、鐘楼堂などは鎌倉末期の再建。





第50番札所 東山瑠璃光院 繁多寺 本尊/薬師如来 宗派/真言宗豊山派







 この付近は松山市の郊外で、人家も多く道ゆく人との出会も多い。
空也谷から八幡神社を経て、なだらかな坂を登ると、右手淡路山の
中腹に山門がみえてくる。門を入れば正面に本堂、右に大師堂、左に
聖天堂、庫裡がある。ご本尊は薬師如来。寺の開基である行基菩薩の
作で孝謙天皇の勅願所であった。その後、伊予入道頼義や尭運によって
再興され、光明寺と号したが、弘法大師が長く留まって東山繁多寺
改称した。時宗の開祖である一遍上人もこの寺にとどまって学問修行
したと伝えられる。上人はその後「捨聖」として遊行し、正応元年
(一二八八)亡父如仏の追善のために三部経を繁多寺へ奉納している。
応永元年(一三九四)には京都泉涌寺二十六世快翁師が後小松天皇
命で繁多寺第七世の住職となり、それより高僧が相継いで住職となった
が、天和のころ龍湖という名僧が出て徳川家の帰依を得ることとなり、
四代将軍家綱の念持仏三体の一つである歓喜天を安じた。







第49番札所 西林山三蔵院 浄土寺 本尊/釈迦如来 宗派/真言宗豊山派











 西林寺から約三.三㌔ほど歩くと空也谷というところがある。
山裾の静かなところだがこれは村人が空也上人を慕ってつけた地名
でここに浄土寺がある。空也上人はやせて腰のまがった身に鹿の皮
を裘にしてまとい、ツエをつき鉦をたたきながら行脚し、念仏の
一言一言が小さな仏になって口から出ている姿をされている。
天徳(九五七〜六○)のころ、上人が四国へ渡って浄土寺に三年間
とどまり民衆の教化に励まれた。浄土寺にある上人像は、上人が
この地を去るにあたって、村人がお姿だけでも留められるようにと
懇願したので、自像を刻んで残したといわれる。大正十一年建立の
仁王門を入れば正面に寄棟造りの本堂がある。本尊は行基菩薩作の
釈迦如来。寺は天平年間に開創され、孝謙天皇の勅願所であった。
後に弘法大師が巡錫し、伽藍を再興している。現存の本堂は文明
十四年(一四八二)領主河野通宣の再建で国の重文。本尊厨子
空也上人像も重文に指定されている。





第48番札所 清滝山安養院 西林寺 本尊/十一面観世音 宗派/真言宗豊山派











 松山方面に向かって約五㌔ほど行くと田園の中に西林寺がある。
川の土手より低い所に寺があることから、罪ある者が門を入ると
無間地獄に落ちると遍路はよび、関所寺といっている。前を流れ
る内川の附近には「ていれき」という草が自生し、市の文化財
指定されている。本堂、大師堂、その他の諸堂は元禄十四年
(一七〇一)の再建。縁起によれば聖武天皇の勅願によって
天平十三年(七四一)行基菩薩が徳威の里に堂宇を建立し、
一宮別当寺として開創した。大同二年(八〇七)には弘法大師
現在地に寺を移し、十一面観性音を刻んで本尊として安置した。
また、大師は大旱魃に悩む村民を救済するため、杖を所々に突いて
清水の湧く水脈を発見し、村民をうるおした。寺の西南にある
「杖の渕」はその遺跡だという。寺の周囲のいたるところに小川
が流れている。「お大師さまのおかげで水だけは不自由しない」
と地元の人々は杖の渕に修行大師像を奉安し感謝している。