前田遼一が引退 磐田で連続得点王

元日本代表39歳前田遼一が引退 磐田で連続得点王
[2021年1月14日6時43分]

 

 

ボールを追う日本代表時代の前田遼一(2013年6月4日撮影)

ボールを追う日本代表時代の前田遼一(2013年6月4日撮影)

 

得点王のFW前田遼一(2009年12月7日撮影)

得点王のFW前田遼一(2009年12月7日撮影)

 

ヘディングシュートを放つ磐田時代の前田遼一(2014年11月1日撮影)

ヘディングシュートを放つ磐田時代の前田遼一(2014年11月1日撮影)

 

元日本代表でJリーグ得点王にも輝いたFW前田遼一(39)が、現役引退を決意したことが13日、分かった。

昨年12月にJ3FC岐阜を契約満了で退団することが発表されていたが、他クラブからの打診もあり、結論を持ち越していた。

東京・暁星高から00年に磐田入りし、183センチの長身を生かしたポストプレーなどで09、10年にJリーグ連続得点王を獲得。15年からFC東京、19年から当時J2の岐阜に移籍した。けがに苦しみながら、J1通算154得点(429試合)は歴代5位の成績を誇る。

11年アジア杯で全6試合に先発して日本の優勝に貢献するなど、国際Aマッチは通算33試合10得点。10年ワールドカップ(W杯)南アフリカ大会は予備登録に終わり、14年W杯ブラジル大会も直前でメンバー入りを逃したが、日本の一時代を築いた名ストライカーだった。

元日本代表39歳前田遼一が引退 磐田で連続得点王 - サッカー : 日刊スポーツ

 

 

 

 

引退決断の前田遼一「デスゴール」が物語る点取り屋
[2021年1月14日12時23分] 

 前田の6年連続デスゴールを報じる12年12月2日付の日刊スポーツ東京本社版4面

前田の6年連続デスゴールを報じる12年12月2日付の日刊スポーツ東京本社版4面

 

 前田の07年から12年までのJ1シーズン初ゴール

前田の07年から12年までのJ1シーズン初ゴール

 

元日本代表でJリーグ得点王にも輝いたFW前田遼一(39)が、現役引退を決意したことが13日、分かった。昨年12月にJ3FC岐阜を契約満了で退団することが発表されていたが、他クラブからの打診もあり、結論を持ち越していた。

 ◇   ◇   ◇

09、10年にJリーグ連続得点王を獲得した点取り屋は「デスゴール」という形で、一時期、一風変わった注目を浴びていた。

これはまるで都市伝説のようなJリーグの“伝説”で、07~12年まで、前田がシーズン初ゴールを決めた相手が何と6年連続でJ2に降格するという怖~い話だった

前田がいかに得点を重ねていたかを物語る話ではあるが、Jリーグでは本当におそれられていた。

13年の開幕戦で、前田がいたジュビロ磐田と対戦した名古屋グランパス。追いつかれての1-1ドローに終わったが、当時のストイコビッチ監督は、聞かれてもいないのにこう語った。

「今日は1つ重要なことがある。マエダにゴールを決められなかったことだ。ナゴヤ、セーフ(笑い)。これでJ1にいられるということだ」

これほど、おそれられていた、素晴らしいストライカーだったんデスということを、物語る“記録”だ。

 

 

引退決断の前田遼一「デスゴール」が物語る点取り屋 - J3 : 日刊スポーツ

 

 

 元日本代表FW前田遼一が現役引退、磐田U―18コーチ就任 

J1歴代5位の154得点


2021年1月14日 17時49分スポーツ報知

 

 磐田時代の前田遼一

磐田時代の前田遼一

 

3岐阜は14日、昨季まで所属した元日本代表FW前田遼一(39)の現役引退を発表し、J2磐田は同日、前田のU―18コーチ就任を発表した。

 前田は両クラブを通じて「僕にプレーする機会を与えてくれたジュビロ磐田、FC東京、FC岐阜に関わる全ての皆さん、そして21年間僕を支え、応援してくれた全てのファン、サポーターの皆さん。皆さんのおかげで本当に幸せなサッカー人生でした!本当にどうもありがとうございました!この度ジュビロ磐田で指導者としてのスタートを切るチャンスをいただくことができました!ゼロからのスタートになりますが、指導者としてこれから頑張っていきたいと思いますので、これからもよろしくお願いします!」とコメントした。

 前田はJ1歴代5位の通算154得点を挙げ、磐田時代の2009、10年に2年連続で得点王に輝いた。F東京を経て19年から岐阜でプレーし、昨季は25試合で1得点だった。日本代表では33試合10得点。

元日本代表FW前田遼一が現役引退、磐田U―18コーチ就任 J1歴代5位の154得点 : スポーツ報知

 

 

 

前田遼一引退】“谷間の世代”と呼ばれて…あえて「暁星→ジュビロ」を選んだ“不器用な男”の21年間
posted2021/01/16 11:02

【前田遼一引退】“谷間の世代”と呼ばれて…あえて「暁星→ジュビロ」を選んだ“不器用な男”の21年間<Number Web> photograph by Toshiya Kondo

14日、現役引退を発表した前田遼一


寺野典子
Noriko Terano

PROFILE

photograph by

Toshiya Kondo

 

「谷間の世代は粘っこい」

 かつて阿部勇樹がこう語っていたことがあったが、そんな“谷間の世代”でまたひとり、現役引退が発表された。昨年末でFC岐阜との契約が満了していた前田遼一だ。

 世界大会はワールドユース出場のみ。2004年のアテネオリンピックも、2010年の南アフリカ大会も2014年のブラジル大会もワールドカップには出場していない。日本代表では33試合出場し10得点とあまり縁がなかったとも言える。

高い技術力と戦術眼、サッカーセンスが前田遼一の持ち味だ。そして、黒子になることもいとわない献身性が彼の美徳だった。だからストライカーとしては地味な存在かもしれない。それでも、J1通算154得点は歴代5位(現在3位タイの中山雅史興梠慎三には3点足りなかった)。

 ちなみに1位の大久保嘉人、2位の佐藤寿人と前田を含め、トップ5には3人の谷間の世代が君臨している。

 ©Takuya Sugiyama 

 

名門暁星→慶應ではなく、名門「ジュビロ磐田」へ

 

そうか、もう21年も前のことだったのか。

 前田を初めて取材したのは、ジュビロ磐田加入が決まっていた2000年1月、U-19日本代表合宿だった。東京の名門私立校暁星学園で育った彼は、少しおっとりとしていて落ち着いた少年だった。

 その年の高卒選手のなかで、もっとも多くのオファーが届いたという前田が、なぜ磐田を選んだのか? 慶應義塾大学への推薦入学が決まっていたとも聞いた。

「ほんと変わっているよね。俺だったら、慶應を選んだよ」と磐田の先輩がさっそく前田をネタに軽口を叩いた(その先輩は名門大学を卒業後、磐田へ入っていた)。世間一般で言われるエリート街道ではなく、成功できるか分からないプロの世界へ身を投じたのは、さぞ、サッカー選手として大きな夢を抱いているからかと思えば、そういう話でもなかった。

「磐田の練習に参加したら、うまい選手ばっかりで、すっごく楽しかったんですよ。サッカーをやるならここだと思って」

 

 当時はまだ強豪校とは言えなかった桐光学園を率いて、高校選手権準優勝に輝いた中村俊輔に前田は憧れていた。中村の高い技術力、ドリブルに魅かれただけでなく、自身もまた中村のように暁星学園高校をけん引し、選手権を勝ち進みたいと考えていた。だからときにはチームメイトに厳しく当たることもあったと、のちに振り返っている。

 前田自身はすでにU-18日本代表にも選ばれ、有名な存在だったが、結局一度も高校選手権には出場できなかった。彼が抱いていた渇きを埋めたのが、磐田での練習だったに違いない。

 けれど、プロの世界は甘くない。目を輝かせながら笑う18歳の前田に、あるJリーガーの話を告げた。

 

 「磐田の練習に参加した帰りの新幹線のなか、選手名鑑を見ながら、自分と年齢の近いMFの顔ぶれを見て、磐田へ行っても試合に出るのは難しいと入団を断念したのが、中村俊輔なんですよ」

 すると前田は「だから楽しかったんですね」と答え、自分と同じポジションの先輩の名前を挙げながら、「なるほど」と納得顔を浮かべ、笑った。やはり楽しさが一番なのだろうとほほえましい気持ちになった。

 

©近藤俊哉

 

 

 

名門の厳しい言葉にも「こんなもんです」

 

 

 当時の磐田は個性豊かな日本代表クラスの選手が揃い、強豪として君臨していた。試合になれば、ときに罵声も飛び交うチームの一員として、果たしてこの少年はやっていけるのか? 強い興味を抱いたことを覚えている。

「僕がシュートを外すと、周りの選手がみんな『アチャー』って感じでコケているんですよ。お笑い番組でコケているみたいな感じで」

 自分の失敗を、少し楽しそうに前田は話してくれたのは、磐田に加入して数カ月経ったときのことだ。

「遼一、俺のコース消すな!!」

「途中から出て来たのにすべてが中途半端で何がやりたいのかわからない」

「お前の視野はどれだけ小さいんだ」

 実際、前田には笑えないくらい厳しい言葉がチームメイトから発せられていた。それを彼はどう受け止めているのだろう。「ごめんなさいという感じですか?」と訊いてみたことがある。

 

 

 「ジュビロの先輩は試合になると鬼になる。怒鳴られても、ごめんなさいとは思わない。本当のことだから。へこんだりはしない。陰で言われるよりもずっといい。今はこんなもんですという感じ」

 さらりとそう言った前田は、他の若手とは違った。「自分はやれる」というような自信はまだなかったが、自分を信じる強い気持ちは厳しい現実のなかでも変わらなかったのだろう。前田が持つ図太い芯みたいなものは、百戦錬磨の先輩たちも見抜いていた。

「あいつは俺たちにキツイことを言われてもへこたれたりしない。だから、俺らも厳しいことを言えるんだよ」と福西崇史が当時語っている。

 

 あの頃の磐田は、ピッチ上では強烈な厳しさが行き渡っていたけれど、チームの雰囲気は部活に近いものがあった。そんななかで、前田は「弟キャラ」としての存在を確立していく。しかし、MFとしての出番はほとんどなく、前田が定着したのは、中山雅史高原直泰に続く、FWとしてのポジションだった。

 

 

©Takuya Sugiyama

 

 

名ストライカーへ 進化の原点は“挫折”

 

 

 「試合にもっと出場できるようにレンタル移籍を考えたこともあるけど、ジュビロで試合に出ることを目標にしたい。そこからは逃げたくない。今までも僕なりにがんばってきたけど、まだ足りないということを痛感している。先輩はみんなもっとがんばっているから」

 新人の前田が口にした「逃げない」という姿勢は、彼がプロとして生きるうえでの基盤となったように感じる。どんなに苦しい現実でも、それを解決できるのは、自分しかない。そのための悪戦苦闘が、成長を後押ししてくれるのだ。

「FWだったのに、1点も取れなくて申し訳ない」

 

 2001年アルゼンチンで行われたFIFAワールドユース選手権(現U-20ワールドカップ)に出場したU-20日本代表で、前田は1トップでプレーしている。高い技術を持つ前田に、前線でボールを収め、攻撃の起点を作り出すゲームメイカーのような働きを期待したのだろう。しかし、阿部勇樹など主力と思われた選手が欠場したこともあり、最下位でのグループリーグ敗退を喫した。これが「谷間の世代」と呼ばれる彼らの原点となった。

 本来のMFではなく、FWで起用されたものの無得点だった自身を前田は責めた。しかし、思い返すと、このときに彼のストライカーとしてのキャリアがスタートしたのかもしれない。現に十数年後には、磐田だけでなく、日本代表としても活躍するFWに進化を果たす。

 

 

「取材しづらい選手」と言われて

 

 

 「今日、俺、そんなに良かったですかね?」

 

 得点を決めた試合後、多くの報道陣に囲まれた前田は、取材に応じながら、少し不満気だった。そして、最後にそっとそう告げた。確かにその試合の前田は運動量が乏しく、らしくはなかった。けれど、ゴールを決めて、チームに勝利をもたらしたのは事実だ。若いFWの活躍にメディアが騒ぐのも当然だった。けれど、前田はそれで良しとはできなかったのだ。

 

©三宅史郎

 

 自分に対してはいつも厳しい。

 そんな前田らしさは、20歳の頃からずっと変わらなかった。ゴールというわかりやすい結果で一喜一憂することはない。90分間何ができたのかが大事だった。チームに勝利をもたらす仕事をすることだけを考えていたように思う。

 その頑なさが、「取材しづらい選手」という印象を作っていったのかもしれない。

 2002年に右ひざを負傷し、長期離脱をして以降、身体のケアに余念がなかった。練習後には乳酸が溜まらないように黙々とジョギングを行い、クラブハウスで長い時間を過ごすようになる。まだ20代前半ながら、その気遣いはベテラン選手のようだった。

 中山をはじめ、ベテラン選手の多い磐田では手本となる選手は数多くいた。そして前田からは少年ぽさが消え、精悍さが強く漂うようになる。

 

 

「強引さが足りないと言われることは多いけれど」

 

 こうして、FWとして頭角を現し始めていた前田が否定されたのが、アテネオリンピック代表でのことだった。

 

 「前田はFWじゃない」と山本昌邦監督は語り、メンバー選考の最後の試合ではボランチで起用、結果、アテネ五輪代表に選出しなかった。ストライカーには「俺が」というエゴや強引さも必要だと言われるが、常にそれを否定する前田は、指揮官が考えるFW像とは違っていた。

「強引さが足りないと言われることは多いけれど、チームよりも先に『自分』が来て、『俺が中心だ』というふうになるとむしろダメになる。そんなことが出来るのは、本当のスーパースターだけ」と、のちに34歳になった前田は話していた。

 自分に厳しい前田だが、チームメイトには優しい。2009年、2010年の2シーズン連続で得点王に輝いた年で、すでに磐田のエースストライカーとして、日本代表の常連にもなっていた時のこと。

 

 世代交代を経た磐田はなかなか思うような結果を生み出せず、両シーズンともに11位と低迷。若い選手たちのなかで、コンビネーションが悪く、前田が活きない試合も少なくなかった(それでも得点を重ねたことは評価に値する)。しかし、そんな試合のあと前田はいつもこう言った。

「まあ、そこがサッカーの楽しいところだと思うから」

 前田はいつも考えていたのだ。「サッカーはひとりではできない。だから面白い」と。

 

2010年のナビスコカップで優勝。胴上げされる前田遼一©Takuya Sugiyama

 

 「FWは周りに使われて、初めてゴールができる。パスが来なければ、シュートも打てないから。得点王を獲ったときもチームのなかでいかに動けるかを一番意識していた。良いクロスを入れてくれる選手がいて、僕自身も上手く動けたから、シュートチャンスが生まれただけのことなんです」

 

 

「サッカーはひとりじゃできない」

 

 

 “選手はチームの歯車であれ”

 これは黄金時代の、かつての磐田の選手なら誰もが口にした言葉だ。誰もがチームのために戦わなければならない。そして、チームを構成する選手全員が共通意識を持つからこそ、歯車は回る。それを構築するには時間もかかる。だから、前田はオファーが届いても環境が変わることを懸念して、磐田に残留したのだろう。それでも「J1へ移籍できる最後のチャンス」と腹をくくり、2015年FC東京へ移籍を果たす。

 

 「移籍をして、サッカーはひとりじゃできないんだなと強く感じた。そして、ここでもまずはチームプレーを考える。組織の歯車になって、そのうえで、僕にしかできないことをやっていきたい」

 移籍加入時にこう語り、それが自身のプレーの幅が広がるきっかけになるだろうとも話した。

 

 

©松本輝一

 

 

 そのFC東京からJ2のFC岐阜へ移籍し、J3でもプレーしたが、コンディション調整に苦慮し、怪我にも悩まされた。FC岐阜での1年目当初、シュート数とゴール数が同じという時期があった。精度100パーセントの理由は、試合を見れば一目瞭然だった。シュートチャンスがほとんどなかったのだ。

 

「サッカーはひとりではできない」

 前田の言葉が重く響いた。

 

 

不器用で真っすぐなサッカー選手だった

 

 

 引退の一報を受けて、真っ先に思い出したのは、若いころの彼の姿だった。

 それは21年もの時間が経過したにもかかわらず、前田の姿勢に大きな変化がないと確信したから。もちろん成長という変化はあったが、思い返せば返すほど、「やっぱり変わらないなぁ」と思わざるを得ない。

 そういう意味では不器用な人間だった。サッカーはあんなに巧いのに……。

 引退発表と合わせて、古巣磐田のU-18チームのコーチ就任もリリースされた。指導者としての第一歩を磐田で踏み出せるのは、前田にとっては幸運だろう。けれど、もう弟キャラではいられない。新しい覚悟が必要になる。

 どんな指導者になるのか。寡黙でどこか不器用な前田の指導者としてのキャリアが楽しみだ。

 

©J.LEAGUE

 

 

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オシムも認めた前田遼一の才

 中山雅史高原直泰のエッセンスを受け継いだ“デスゴール”

 

 オシムも認めた前田遼一の才 中山雅史、高原直泰のエッセンスを受け継いだ“デスゴール”<Number Web> photograph by J.LEAGUE

 

 雑誌「Sports Graphic Number」と「NumberWeb」に掲載された記事のなかから、トップアスリートや指導者たちの「名言」を紹介します。今回は、先日現役引退を発表した前田遼一ジュビロ磐田を支えたストライカーによる3つの言葉をご紹介します。

 

<名言1>
褒め言葉は自分をだめにするから好きではない。
中山雅史/Number798号 2012年2月23日発売)

 

 2015年に現役復帰し、J3アスルクラロ沼津で選手登録されていた中山は、この1月に沼津を退団してジュビロ磐田のコーチに就任することを発表した。トレーニングを続けながらも沼津U-18のコーチを経験し、昨年には現役Jリーガーとして初のS級コーチライセンスを取得済み。J2に甘んじる古巣にどんな影響をもたらすか早くも注目が集まっている。

 中山といえば、ギネスブックに認定された4試合連続ハットトリックや日本代表として初めてW杯でゴールを挙げるなど、記録にも記憶にも残るゴールを量産してきた“炎のストライカー”である。ともに磐田で黄金時代を築いた司令塔・名波浩はその凄さを過去の取材でこう語っている。

 

 「どんなに点を入れてもゴンちゃんは『いいボールが来たから』としか言わなかった。もし奢っていたら、きっとあれほどボールは集まらなかったと思う」

 準備を怠らず、どんなボールにも体を張って反応する。そんな中山のストライカーとしての能力は、プレーを見れば誰もが理解するところ。後に続いた高原直泰前田遼一らにも大きな影響を与えた。

 

2002年セカンドステージを制してカップを掲げる中山雅史 ©︎Kazuaki Nishiyama

 

 現在、磐田には五輪世代の小川航基、下部組織出身の三木直土ら奮起が期待されるストライカーが揃う。J1昇格に向けて、点取り屋の出現は必須。中山のイズムが“ジュビロ復活”のキーワードになることは間違いなさそうだ。

 

 

 

<名言2>
FWにとっては結果がすべて。俺は点を取って結果を出せたことで自信を持てた。そういう自信は、どこに行っても生かされると思う。
高原直泰/Number564号 2002年12月5日発売)

 

 2ステージに分かれていた2002年のJリーグ。前後期ともにジュビロ磐田が制し、史上初の完全優勝を遂げた。その原動力となったのが27試合26得点で得点王に輝いた当時23歳の高原だった。アルゼンチンの名門ボカ・ジュニアーズへのローン移籍から復帰した高原は、その年の日韓W杯直前にエコノミークラス症候群を発症し、選外に。その悔しさを晴らすかのように覚醒した。

 ストライカー高原の凄さはその万能さにある。両足・頭から放たれるダイナミックなシュートに加え、巧みなボール捌きやパスを引き出す駆け引き……子どもたちの多くが、その破壊力満点の点取り屋の姿に憧れを抱いた。

 

 また、技術だけではなく、その強いメンタルも魅力的だった。

Jリーグは欧州よりレベルが低いと言われようが、結果を出せば問題ないでしょう。逆に欧州や南米から多くの外国人選手が来たけど、結果を出した選手が何人いるんだ?って思う」

 

脅威となり続けた高原と中山の2トップ ©︎Naoya Sanuki

 

 自信を確かなものにした高原はドイツ・ハンブルガーSVへ移籍。加入1年目から当時の名手として君臨していたドイツ代表GKオリバー・カーンから得点を奪うなど飛躍を遂げ、現地では「スシボンバー」の異名を付けられるほどの活躍を見せた。

 

沖縄でコーヒー豆栽培も

 

 現在、自身が立ち上げた沖縄SV九州サッカーリーグ)で代表取締役を務める傍ら、選手としてもプレーしながらJリーグ加盟を目指している。昨年のNumberWebの取材では、沖縄SVで取り組む地域貢献の1つであるコーヒー豆栽培について熱く語ってくれた(2020年2月10日配信/https://number.bunshun.jp/articles/-/842377)。

「ドイツから日本に戻ってきて、その後は韓国のクラブにいったり、J2やJ3のクラブでもプレーしました。そうやってカテゴリーが下がってくると、より周りの応援とか支え、それに地域やスタッフとの結びつきが見えるようになってきたんですよ。<中略>ぼくの頭になんとなく農業というキーワードがあったんですが、沖縄で農業をやられている方の中に、農福連携、つまり農業と福祉を結びつけたソルファコミュニティという組織を運営していて、障がい者の方と肥料を一切使わない自然栽培に取り組んでいる人がいたんです。興味があったので自分で問い合わせをして紹介してもらい、少しずつ農業体験をさせてもらいました」

 

©︎Nanae Suzuki

 

 柔らかい表情を浮かべて畑仕事をする高原だが、言葉の端には強いプライドがにじみ出る。「どこに行っても生かされる」と語る「自信」はいまも高原の原動力になっている。

 

 

<名言3>
ジュビロという土壌が、遼一のストライカー像をつくっていったのだと思います。
奥大介/NumberWeb 2010年11月17日配信)
https://number.bunshun.jp/articles/-/63777

 

 ブラジルW杯へ向けて歩み始めた日本代表。当時、話題になっていたのがストライカ前田遼一の覚醒だ。名指しで褒めることが少ないとされるイビチャ・オシムに「見た目はそれほど速く見えないが、いつの間にか相手にとって危険なエリアにいる。今の日本に不足しているタイプだ」と賞賛されるほど期待を集めていた。惜しくもW杯メンバーからは漏れるも、2010年は当時史上初だった2年連続の得点王に輝いている。

 ただ、巧みなポジショニングやポストプレーなど献身的な姿勢が評価される一方で「力強さがない」と指摘されるシーンも多かった。自身初の移籍を決断したFC東京でのシーズンを前にしたインタビューでは、こんな風に語っていた。

 

 「ジュビロでもそういう風に言われることは多かったですね。でも、先に“自分”が来て、“俺が中心だ”という風になると、むしろダメになると思うんです。そんなことが出来るのは、本当のスーパースターだけ。結局FWは周りに使われて、初めてゴールができる。パスが来なければ、シュートも打てないから。<中略>移籍をして改めて、サッカーはひとりじゃできないんだなと強く感じています」(2015年3月4日配信/https://number.bunshun.jp/articles/-/822814

 FWは周りに使われて――とは先輩である中山雅史の姿勢にもつながる。ジュビロ磐田の黄金期の一員として、多くのチャンスを演出した奥大介(享年38)は生前に前田を高く評価していた。

ジュビロに入ったころの遼一は体の線が細かった。ゴンさんの影響を受けて体づくりに励み、フィジカルを強くしようと必死でやっていました。今の遼一の運動量とか、体の強さを見ていると、ゴンさんに似ています。それにドリブルや体の使い方、ポストプレーのうまさなどは高原に似ています」

 中山が背負った「9番」の継承を固辞したのも目立つことを嫌う前田らしいが、2人の偉大なストライカーのエッセンスを授かった前田は以降、ジュビロの“顔”を引き継いだ。

 

2010年静岡ダービー ©︎Toshiya Kondo

 

 

 

J1得点数は中山に次ぐ5位

 

 

 1月14日、39歳を迎えていた昨季限りでの現役引退を発表。会見は行わずに静かにスパイクを脱いだ。

 J1通算154得点は、現時点で中山に次ぐランキング5位。ヘディングによる得点数では中山を抜いている。磐田ではクラブ初J2を経験するなど、先輩たちが築いたような黄金期は訪れなかったが、FC東京FC岐阜と渡り歩いた先でも確かな足跡を残した。

 今季は古巣磐田のU-18チームでコーチになる。前田にシーズン最初にゴールを奪われたチームは降格するという“デスゴール”でも恐れられた高いゴール奪取力。その技術は後続のストライカー育成にも大きく役立つはずだ。

 

©︎Toshiya Kondo

 

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