訃報 古賀俊彦逝去

「平成の三四郎古賀稔彦さん、53歳で死去―昨春からがんで闘病「絶対にカムバックする」と奮闘も力尽く


報知新聞社 2021/03/25 06:00

 

92年バルセロナ五輪・男子71キロ級決勝で金メダルを獲得し、万感の表情でガッツポーズする古賀稔彦さん

© スポーツ報知/報知新聞社 92年バルセロナ五輪・男子71キロ級決勝で金メダルを獲得し、万感の表情でガッツポーズする古賀稔彦さん

 

 1992年バルセロナ五輪の柔道男子71キロ級金メダリストで「平成の三四郎」と称された古賀稔彦(としひこ)さんが24日午前9時9分、がんのため、神奈川・川崎市の自宅で死去した。マネジメント会社が発表した。53歳の若さだった。現役引退後は日本女子代表のコーチを務めるなど精力的に指導していたが、手術から約1年で帰らぬ人となった。葬儀・告別式は29日に執り行われる。時間や場所は非公表。

 「平成の三四郎」が53歳の若さで天国へ旅立った。複数の関係者によると、昨春にがんで体調を崩して入院し、腎臓を片方摘出。退院後は「元気です。大丈夫です」と明るく振る舞っていたが、目に見えて痩せていき、周囲から心配する声が上がっていた。1週間ほど前には「絶対治してカムバックする」と誓っていたというが、この日朝、自宅で亡くなった。

 東京の柔道私塾「講道学舎」時代から古賀さんを指導した吉村和郎さん(69)は、この日夕方、自宅で古賀さんと対面。「痩せてしまっていて…。面影は全くなかった。(闘病は)きつかったんだろうな」と声を落とした。今月3日に体調を気遣い、電話で連絡した。抗がん剤の影響で声はか細く、腹水がたまっている状況を打ち明けられたが、「お前もいろんな試練を乗り越えてきたんだから大丈夫だよ」と励ますと、「ありがとうございます」とはっきりした口調で返ってきたという。

 

95年の世界柔道はオール一本勝ちで優勝

95年の世界柔道はオール一本勝ちで優勝

 

 前日の23日には、バルセロナ五輪男子78キロ級金メダルで教え子の吉田秀彦さん(51)が知人を伴って訪問した。吉村さんは、吉田さんから報告を受け、手を握ると握り返すものの、ずっと目をつぶったような状態だったという。それでも「今日の朝とは思わなかった。秀彦から電話がかかってきた時はびっくりした」と惜しんだ。

 古賀さんは佐賀県出身で中学、高校の6年間を吉田さんらと講道学舎で鍛えた。五輪は1988年ソウル大会で初出場したが、3回戦敗退。4年後のバルセロナでは、現地で吉田との稽古中に左膝を負傷。自力で歩けないほどの大けがを負った。試合前の計量にもマウンテンバイクの荷台に乗せられて向かったほどだったが、痛み止めの注射を打って強行出場。医者が驚く状態でも、代名詞の一本背負いは「大事なところまで使いたくない」と語り、準決勝でドイツ選手に放って勝利するなど劇的な形で金メダルに輝いた。

 96年アトランタ大会は階級を1つ上げて銀メダルを獲得した。世界選手権も3度制覇。身長169センチの小さな体で重量級の猛者たちを破って決勝に進んだ90年全日本選手権も語り草だ。2000年の現役引退後は女子日本代表のコーチを務め、自身の道場「古賀塾」を開いて子どもたちを指導した。突然の訃報に柔道界は大きな悲しみに包まれた。古賀さんは、自宅の道場で安らかに眠っているという。(林 直史)

 

「平成の三四郎」古賀稔彦さん、53歳で死去―昨春からがんで闘病「絶対にカムバックする」と奮闘も力尽く : スポーツ報知

 

 

古賀稔彦さん 真の金メダリスト-弱音を吐かなかった「強さ」

デイリースポーツ 2021/03/25 07:30

 

 

笑顔でインタビューに答える古賀稔彦さん=2012年12月撮影

© デイリースポーツ 笑顔でインタビューに答える古賀稔彦さん=2012年12月撮影

 

 1992年バルセロナ五輪柔道男子71キロ級金メダリストの古賀稔彦さんが24日午前9時9分、がんのため川崎市内の自宅で亡くなった。53歳だった。葬儀・告別式は29日に執り行われる。時間や場所は非公表。関係者によると、昨春に体調を崩して一時入院し、手術も受けたという。豪快な一本背負いを武器に大きな選手を投げ飛ばした「平成の三四郎」の突然の訃報に、柔道界、スポーツ界は悲しみに暮れた。

 ◇  ◇

 その時、私はバルセロナ市内のとあるビルの中にいた。そこは日本柔道代表チームが本番前の練習場として借りたもので、ガラス張りの部屋の中には選手から「滑る」と不評の畳が敷きつめられていた。

 古賀はその上で後輩の吉田秀彦乱取りを行い左膝を負傷した。古賀の痛みにゆがんだ顔、申し訳なさそうにしている吉田の様子は今でも鮮明に記憶にある。その後、古賀はスタッフに背負われて病院に向かった。

 試合当日はスタンドから古賀の試合を観戦した。左膝が痛くても歯を食いしばって耐え、十八番の一本背負いを繰り出す。決勝戦の相手はいわゆるポイント柔道選手で腰を引いて技のかけ逃げを繰り返すだけだったが、古賀は果敢に前へ前へ攻めて判定勝ち。両手を会場の天井に突き上げて喜びの涙を流した。先輩のけがの原因を自分が作ったと思い込んでいた吉田も駆け寄り、古賀以上に男泣きに泣いた。

【悼む】古賀稔彦さん 真の金メダリスト-弱音を吐かなかった「強さ」/スポーツ/デイリースポーツ online

 

 

古賀稔彦さん“最期の作品”お礼する前に…惜しむ声
日刊スポーツ新聞社 2021/03/25 10:00

古賀稔彦さんが書き上げた「湖東錬成館」の表札板

古賀稔彦さんが書き上げた「湖東錬成館」の表札板

 

古賀稔彦さんが書き上げた表札板とともに記念撮影する湖東錬成館の子供ら

古賀稔彦さんが書き上げた表札板とともに記念撮影する湖東錬成館の子供ら

 

 92年バルセロナ五輪柔道男子71キロ級金メダルの古賀稔彦さんは、柔道界随一の達筆で知られていた。「文字は人を表す」ではないが、柔道と同じような躍動感ある文字が、多くのファンから大人気だった。

 24日午前に亡くなった古賀さんの“最期の作品”は、滋賀県東近江市にある。今年1月、国の登録有形文化財で柔道場として利用されている「湖東錬成館」の表札板を古賀さんの書で新調した。

 表札板は長さ約1メートルのけやき板。劣化のため文字が読めなくなっていた。04年に市内で古賀さんに講演してもらった縁で、湖東錬成館関係者が子どもたちに「夢や希望を与える表札にしよう」と考え、打診した。昨年11月に古賀さんから「湖東錬成館」の文字を記した15点の候補を書き上げてもらった。力強い文字で、字体、細字、太字などさまざまだった。その後、保護者らで表札にする1点を選び、元の看板を利用して文字を転写して仕上げた。

 表札板は柔道場の入り口の柱にかけ、書とともにプレゼントされた古賀さんの全身パネルと並べた。湖東錬成館の垣谷康隆さん(56)は「まさか、こんなことになるとは…。今でも信じられません。古賀先生の文字から『頑張れよ』という強い思いが伝わり、この表札に負けないよう子供たちとともに精進します」と感慨を込めた。

 道場で稽古する地元の小中学生たちは、コロナ禍の影響で古賀さんに直接お礼を言えなかったため、5月にも都内でお礼を伝える計画を立てていたという。その願いも実現せず、柔道界のスーパースターは53歳の若さで旅立ってしまった。【峯岸佑樹】

古賀稔彦さん“最期の作品”お礼する前に…惜しむ声 - 柔道 : 日刊スポーツ

 

 

「令和の三四郎は誰?」古賀稔彦さんが出した答え
[2021年3月25日7時1分]

古賀稔彦さん

古賀稔彦さん

 

92年7月、バルセロナ五輪 柔道・男子71キロ級表彰式 金メダルを獲得し声援に応える古賀稔彦さん

92年7月、バルセロナ五輪 柔道・男子71キロ級表彰式 金メダルを獲得し声援に応える古賀稔彦さん

 

 

90年4月、全日本選手権決勝で小川直也(左)と対戦した古賀稔彦さん。小川は193センチ、130キロ、古賀さんは169センチ、76キロで2人の体重差は54キロだった

90年4月、全日本選手権決勝で小川直也(左)と対戦した古賀稔彦さん。小川は193センチ、130キロ、古賀さんは169センチ、76キロで2人の体重差は54キロだった

 

古賀稔彦の世界大会全成績表

古賀稔彦の世界大会全成績表

 

<悼む>

 92年バルセロナ五輪柔道男子71キロ級金メダルの「平成の三四郎」こと古賀稔彦氏が24日、死去した。53歳だった。関係者によると、昨年からがんの闘病中で24日朝に亡くなった。

  ◇   ◇   ◇

 「悔し涙ですよ。勝つつもりだったから」。90年4月29日、全日本選手権決勝。小川直也に一本負けした古賀さんは、大粒の涙をこぼしていた。76キロの体での体重無差別出場。誰もが「無謀な挑戦」と思ったが、本人は本気だった。東京都予選から勝ち上がり、本選でも100キロを超す相手を次々と退けた。そこには、2年後の五輪金メダルにも通じる柔道家としての誇り、強い信念があった。

 「体の大きさなんて、絶対的なものじゃない」。強がりではない。高校時代から、東京・世田谷学園の大将として重量級選手を投げてきた。抜群の技のキレと強靱(きょうじん)な足腰、そして大きな相手をも恐れない勇気。俊敏な身のこなしで大木をなぎ倒す。「柔よく剛を制す」を体現してきた。

 古賀さんならでは「美学」だと思う。「昭和の三四郎」岡野功さん直系の背負い投げは、高角度に相手に持ち上げ、畳にたたきつける豪快なもの。「見ている人が喜ぶから」という思いは、大きな相手を投げることにもつながった。

 「令和の三四郎は誰か?」と聞いたことがある。ニヤッと笑って「三四郎は僕が最後。もう出てこないですよ」と答えた。圧倒的に強く、なおかつ魅了する。そして、人間としても深みがある。柔道の五輪金メダリストは数多くいるが、古賀さんほどオーラを発する王者は見たことがない。古賀さん自身のプライドが、体からあふれていた。

 時代もある。古賀さんの頃は、世界選手権は2年に1回。全日本選手権に挑んだ90年は世界大会がなかった。今は毎年世界選手権がある上に、ランキング制導入で多くの階級別大会に出なければならない。講道学舎の後輩である大野将平らが全日本選手権に意欲を燃やすが、今の軽中量級の選手にとって無差別のハードルは高い。

 小説「姿三四郎」が由来の「三四郎」は、小柄ながら大男を投げる柔道の代名詞。高校時代から「三四郎」の異名をとった古賀さんは、90年代に「平成の三四郎」と呼ばれた。1964年東京五輪をきっかけに導入された階級制で勝つと同時に、体重無差別だった時代の柔道をも追い求めた。五輪金メダル1個、全日本選手権準優勝、記録をはるかにしのぐ、永遠に記憶に残る「最後の柔道家」。不世出の天才であり、人間的な魅力にあふれる古賀さんだからこそ、早すぎる死が残念でならない。【荻島弘一】

三四郎 富田常雄の小説「姿三四郎」の主人公。実在した柔道家西郷四郎がモデルと言われている。作品は多数の映画、ドラマなどの原作になった。三四郎は小柄ながら大きな選手を相手に奮闘したため、同様の選手は「○○の三四郎」と呼ばれることが多い。岡野功は「昭和の三四郎」、山口香は「女三四郎」と称された。お笑いコンビの三四郎は柔道とは無関係。

◆90年の全日本選手権 71キロ級の世界王者の古賀は2回戦で59キロ、3回戦で44キロ、準々決勝で79キロ、準決勝で32キロの体重差を克服して、4試合すべて旗判定で決勝に進出した。最後の相手は前年の世界選手権重量級2冠で大会連覇を狙う小川。体重で59キロ、身長24センチ差があった。当時の試合時間は準決勝までが6分で決勝は10分。準決勝までに体力を使い果たしていた古賀は、それでも粘りを見せて試合は7分を超えたが、最後は小川の足車で一本負けした。会場の日本武道館は健闘をたたえる歓声と拍手につつまれた。

「令和の三四郎は誰?」古賀稔彦さんが出した答え - 柔道 : 日刊スポーツ

 

 

 

阪神・佐藤輝の父・博信さん 大学時代の友・古賀さん偲ぶ

「やっぱり同じ人間なんだな」

 大学卒業後の91年講道館杯で優勝した古賀稔彦さん(前列左から2人目)と阪神・佐藤輝明の父・博信さん(後列左から4人目)=本人提供

 大学卒業後の91年講道館杯で優勝した古賀稔彦さん(前列左から2人目)と阪神・佐藤輝明の父・博信さん(後列左から4人目)=本人提供
 

 1992年バルセロナ五輪柔道男子71キロ級金メダリストの古賀稔彦さんが24日午前9時9分、がんのため川崎市内の自宅で亡くなった。53歳だった。葬儀・告別式は29日に執り行われる。時間や場所は非公表。関係者によると、昨春に体調を崩して一時入院し、手術も受けたという。豪快な一本背負いを武器に大きな選手を投げ飛ばした「平成の三四郎」の突然の訃報に、柔道界、スポーツ界は悲しみに暮れた。日体大柔道部の同期で、阪神のドラフト1位・佐藤輝明内野手(22)の父・博信さん(53)が故人をしのんだ。

 突然の知らせを受け止めることはできなかった。博信さんは「とにかくびっくりした。嫁さんの朝の第一声が“古賀さんが亡くなった”って。しばらく起き上がれなかったです。まあ、やっぱりね…。同級生やし、いなくなると、やっぱりデカいですね、存在が」。最後に会ったのは2018年に兵庫県で開催された全国学生体重別だった。

 高校時代から全国大会を制しスーパースターだった古賀さんと、「無名だった」と話す博信さんは日体大柔道部で出会った。仙台育英高を経て東京に出てきた博信さんにとって、おぼろげだった五輪への夢を身近に感じさせてくれた存在だ。

 もちろんその練習の姿は「えぐかった」と想像を絶するものだったが、畳を離れればその人間臭さにひかれた。「柔道では全然歯が立たないですけど、日常生活で一緒に酒飲んでべろべろになったり、ちょっとしたことで悩んでたりする姿を見るとね。同じ釜の飯を食った人間からするとやっぱり同じ人間なんだなと。自分らと変わらないんだなと。アホなことも言うし。身近な人間が五輪に出ると、自分でも行けるんじゃないかと思えた」。

 最終学年では古賀さんが主将、博信さんが副主将を務めた。切磋琢磨(せっさたくま)する中で、博信さんも1988年にチェコ国際を制し、90年には正力国際準優勝。卒業後の91年には講道館杯で優勝した。五輪には届かなかったが“平成の三四郎”と過ごした日々は間違いなくかけがえのない時間だった。

 卒業後も交流は続き、佐藤家の表札をデザインしたのは古賀さん。20年、息子の輝明内野手阪神からドラフト1位指名を受けた際もLINEで祝福メッセージが届いた。

 酒を飲んでは博信さんを酔わせ、古賀さんは平気な顔をしていたという。「だいたい、あいつといたら間違いなく、べろべろになる。飲ませ上手だから。いや強いんですよ、酒が。焼酎1升ぐらい平気だったね。九州人だからね」。その屈託のない笑顔をしのんだ。

 ◆佐藤博信(さとう・ひろのぶ)1967年4月25日、宮城県出身仙台育英高-日体大。現役時代は86キロ級で88年チェコ国際優勝、90年正力国際準優勝、91年講道館杯優勝。大阪産大教員をへて、関西学院大人間福祉学部准教授。

 

阪神・佐藤輝の父・博信さん 大学時代の友・古賀さん偲ぶ「やっぱり同じ人間なんだな」/スポーツ/デイリースポーツ online

 

 

古賀稔彦さん、偉業称え9段昇格 一般的に8段まで
[2021年3月26日9時0分]

 柔道の総本山の東京・講道館が、24日に死去した92年バルセロナ五輪男子71キロ級金メダルで段位8段の古賀稔彦さん(享年53)を9段に昇段させたことが25日、分かった。五輪金メダルや3度の世界選手権制覇、中量級で90年全日本選手権準優勝など生前の偉業をたたえ、亡くなる1日前の23日付での昇段となった。

 段位は初段から10段まであるが、一般的に8段が最高とされる。戦績や競技普及などの功績があった場合のみ赤帯が与えられる9段となる。9段は全国で30人程度で、76年モントリオール男子無差別級金メダル、講道館上村春樹館長(70)や、男子95キロ超級で五輪2大会連続金メダルの斉藤仁さん(享年54)らがいる。

 

古賀稔彦さん、偉業称え9段昇格 一般的に8段まで - 柔道 : 日刊スポーツ

 

 

小川直也氏「最後まで強い稔彦」古賀さん弔問で沈痛
[2021年3月26日5時0分]

 92年バルセロナ五輪柔道男子71キロ級金メダルの古賀稔彦さんの死去を受け、同五輪男子95キロ超級銀メダルの小川直也氏(52)が25日、川崎市の古賀さん宅を弔問した。古賀さんは24日に53歳で亡くなった。

 約2時間半の弔問後、取材に応じ、同学年で高校時代からの“戦友”を失った沈痛な思いを口にした。「報道でしか見てないから事実確認の意味で来たけど…。稔彦を見て本当だった。まだ信じられないし、言葉が出ない」。

 古賀さんの遺体は、町道場「古賀塾」を併設する自宅1階の道場中央に安置されている。布団の上で柔道着に身を包み、穏やかな表情で眠っているという。そこには、90年全日本選手権決勝で戦った「平成の三四郎」の姿はなく、「この姿は俺に見せたくなかったはず。最後まで完全主義者らしい『強い古賀稔彦』を貫きたかったと思う。ずっとライバル関係で彼がいたから今の俺があるし、向こうの世界でも後で肌をぶつけようって…」と、言葉をつまらせた。

 古賀さんには今年2月上旬に電話して、体調が回復したら「快気祝いをしよう」と約束した。銀座などで飲み歩いた現役時代を思い返し、酒を酌み交わしたかったという。

 「約束を果たせないでどうするんだよ。お見舞いにも行くと言ったら、『良くなったら来て』と言われるし。きっと最後まで俺の前では、強い稔彦でいたかったんだろうね。大事な人を亡くして、本当に残念でならない」

 伝説の全日本選手権から30年-。互いに階級も異なり、戦ったのはこの1試合のみだった。「歴史をつくる試合ができたのは稔彦のおかげ。努力だけで決勝まで上がり、互いを尊敬し合い、勝った負けたを超えた戦いになった。あれは一生の思い出だね」。満員の日本武道館でヒール役を演じた小川氏は、柔道界のスターの早過ぎる旅立ちにショックを隠しきれない様子だった。【峯岸佑樹】

 

小川直也氏「最後まで強い稔彦」古賀さん弔問で沈痛 - 柔道 : 日刊スポーツ

 

 

 

 古賀さん 愛弟子谷本さんに昨夏“最後の手紙”、師の教え守り「常に前へ進む」
[ 2021年3月25日 05:45 ]

 

04年アテネ五輪で優勝を決め、試合後に古賀稔彦コーチ(左)と肩を組みガッツポーズする谷本歩実

04年アテネ五輪で優勝を決め、試合後に古賀稔彦コーチ(左)と肩を組みガッツポーズする谷本歩実
Photo by スポニチ

 

 古賀氏の急逝に、04年アテネ五輪時に階級担当コーチとして指導を仰いだ谷本歩実さん(39)は秘められた手紙の内容を公開。現実を受け止められない心境と、尽きない感謝の気持ちをつづった。
 今週に入ってから「話ができない状態」と聞き、覚悟はしていたんですけど、まだ受け入れられないというか、向き合えないというか。私にとって、古賀先生は柔道だけでなく、人生の師。ターニングポイントではいつも相談させていただき、真摯(し)に対応していただきました。

 最後に直接お会いしたのは1年ちょっと前の、新潟での柔道教室だったと思います。その後、やりとりのたびに古賀先生らしくない弱気な発言が聞かれるようになって…。昨年の夏「僕からのお願い」というお手紙を頂いたんです。人の役に立つためにこういう人間であってほしいとか、こういう人間になってほしいとか。それで、体調が思わしくないことを察していました。

 私の柔道家としての人生は古賀先生抜きには語れません。2000年のシドニー五輪代表を逃した古賀先生は、当時女子監督だった吉村和郎先生の招きで全日本女子のコーチに就任されました。当時、筑波大1年だった私は、いわば1期生。先生の教えは「心」から入ってくるんですね。柔道家というより、勝負師としての心構え。勝つためになぜ努力が必要かなど、染みるものでした。

 2001年、ミュンヘンで開催された世界選手権の代表に選ばれてからは私の階級(63キロ級)の担当コーチとして指導していただきました。04年アテネ五輪まで「世界で勝つためにどうするか」はすべて古賀先生が考え、教えてくれたと思います。88年ソウル五輪でまさかの黒星を喫して、多くの人に冷たい視線を浴びたこと。96年アトランタ五輪決勝では残り30秒で守りに入ってしまったこと。苦い記憶も包み隠さず、本当に必要なことを伝えてくれました。

 アテネ五輪で金メダルを獲った翌日のことも印象深いです。試合会場に応援に行く最中に「もし2度目の五輪を目指すなら、楽しみを見つけなければならない」と。それは自分の限界を超えることや、技術の向上、新しい技の習得などに楽しみを見いだすことだと知りました。私、今も指導するときに「楽しむ」をキーワードにしているんですが、この教えによるところが大きいかもしれません。

 古賀先生に頂いた手紙の数々は、いつも心の支えです。「歩みを止めなければ実る、とおまえの名前には書いてある」というのも、先生の手紙にあった言葉です。これから、先生がいなくなったことを受け止め、喪失感に見舞われる日がくるでしょう。でも、先生の教えに従って、前に進むしかありません。古賀先生、本当にありがとうございました。

古賀さん 愛弟子谷本さんに昨夏“最後の手紙”、師の教え守り「常に前へ進む」― スポニチ Sponichi Annex スポーツ

 

 

 

小川直也氏「バカヤロー」古賀稔彦さん通夜参列で悲痛…「かけがえのない友失った」

2021.03.28

 棺に向かって手を合わせる小川直也氏(代表撮影)

 棺に向かって手を合わせる小川直也氏(代表撮影)
 斎場内に飾られた古賀さんの思い出の品々(代表撮影)
 斎場内に飾られた古賀さんの思い出の品々(代表撮影)

 24日にがんのため53歳の若さで亡くなった、1992年バルセロナ五輪柔道男子71キロ級金メダリストの古賀稔彦さんの通夜が28日、川崎市内の寺院で営まれた。全日本柔道連盟山下泰裕会長(63)ら柔道関係者をはじめ、約3000人が参列。同五輪95キロ超級銀メダルの小川直也氏(52)は「言葉が出ない。バカヤローって感じだよ。早えーよ」と、どこにもぶつけようのない無念をあらわにした

 人知れず闘病していた古賀さんとは、2カ月ほど前に連絡を取ったという。「すごく元気で笑い合っていたのに…まさかという感じ。今でも(死去を)信じられない。今日でお別れと思うと言葉が出ない」。直接会うことはかなわなかったといい、「『お前の前じゃ、こんな(弱った)体をみせられない。元気になるまで待ってくれ』と言われて。最後まで俺の前では元気な姿を見せたかったのかな…。今はゆっくり休んでくれとしか言いようがない」と語った。

 古賀さんとは同学年で高校時代から旧知の仲だった。1990年全日本選手権では体重無差別の大会にもかかわらず、中量級の古賀さんが決勝まで進出。小川氏と真っ向勝負の接戦を演じて古賀さんが敗れたものの、準優勝に輝いたことは伝説となっている。

小川直也氏「バカヤロー」古賀稔彦さん通夜参列で悲痛…「かけがえのない友失った」/スポーツ/デイリースポーツ online

 

 

古賀稔彦さん通夜に3000人参列…吉田秀彦氏無念の涙「現実と受け取れない」

2021.03.28

 棺を前に涙をぬぐう吉田秀彦氏(右)=代表撮影

 棺を前に涙をぬぐう吉田秀彦氏(右)=代表撮影
 
 祭壇に向かって手を合わせる吉田秀彦氏(代表撮影)
 祭壇に向かって手を合わせる吉田秀彦氏(代表撮影
 
棺の中を見つめる北島康介氏(右)と吉田秀彦氏(代表撮影)
棺の中を見つめる北島康介氏(右)と吉田秀彦氏(代表撮影)
 

 24日にがんのため53歳の若さで亡くなった、1992年バルセロナ五輪柔道男子71キロ級金メダリストの古賀稔彦さんの通夜が28日、川崎市内の寺院で営まれた。全日本柔道連盟山下泰裕会長(63)ら柔道関係者をはじめ、約3000人が参列。同五輪男子78キロ級金メダルの吉田秀彦氏(51)は手で涙をぬぐいながら、「現実とは受け取れない心境」と無念さをにじませた。

 古賀さんが亡くなる前日にも見舞いに訪れていたという吉田氏は「こっから元気になってくれると信じて先輩に声をかけたので、それが通じずに亡くなってしまい、信じられない気持ちでいっぱいです」と悲痛な思いを明かした。

 古賀さんは柔道私塾「講道学舎」の2学年先輩で中高時代から一緒に汗を流した。ともに出場したバルセロナ五輪では、直前練習で自身と乱取り練習をしている際に、古賀さんが左膝の靱帯(じんたい)を損傷。満足に歩けない状態となったが、それでも痛み止めを注射し、テープで固定しながら執念で金メダルを獲得して感動を呼んだ。

 吉田氏は「中学から一緒の釜の飯を食って、自分は何でも古賀先輩のまねをしてやってきた人間。本当に兄貴みたいによくしてもらったし、五輪で2人で一緒に金メダルを取れたのも先輩のおかげ」と改めて感謝。「五輪で練習してけがさせてしまったのもそうですけど、その後に自分に気を使い、周りに気を使い、ああいう状況でも試合に出ることを諦めず、どうやって金メダルを取るかしか考えていなかった。それを間近でずっと見ていたので、なんてすごい人なんだと。自分じゃまねできないなと思っていたし、そういうすごい人が身近にいて、いいお手本になっています」と最敬礼した。

 

古賀稔彦さん通夜に3000人参列…吉田秀彦氏無念の涙「現実と受け取れない」/スポーツ/デイリースポーツ online

 

 

柔道古賀稔彦さん通夜に3千人
吉田さんら別れ惜しむ

2021/3/28 21:09 (JST)3/28 22:42 (JST)updated
©一般社団法人共同通信社

  

祭壇に飾られた柔道の五輪金メダリスト、古賀稔彦さんの遺影

=28日、川崎市(代表撮影)

 1992年バルセロナ五輪の柔道男子71キロ級金メダリストで、24日にがんのため53歳の若さで死去した古賀稔彦さんの通夜が28日、川崎市内の寺院で営まれた。小雨も降る中、ともに同五輪を制覇した吉田秀彦さんら約3千人が「平成の三四郎」と称された柔道家との早過ぎる別れを惜しんだ。

 バルセロナ五輪決勝で勝った瞬間の姿などの遺影が掲げられ、白の柔道着姿でひつぎに。吉田さんは「現実とは受け取れない」と涙を拭い、全日本柔道連盟山下泰裕会長は「やり残したことがたくさんあったと思う」と悼んだ。

 戒名は「柔よく剛を制す」や金メダルから「金剛院献柔稔制大居士」となった。

  

柔道古賀稔彦さん通夜に3千人 吉田さんら別れ惜しむ | 共同通信

 

 

 

古賀颯人さん、父稔彦さん最後まで病気と闘っていた
[2021年4月3日13時56分]

 

母校日体大から故古賀稔彦さんへ「功労スポーツマスター」の称号が授与され、その賞状を受け取った長男の颯人さん(撮影・平山連)

母校日体大から故古賀稔彦さんへ「功労スポーツマスター」の称号が授与され、その賞状を受け取った長男の颯人さん(撮影・平山連)

 

 日体大の入学式が3日に東京・世田谷キャンパスで開かれ、53歳で死去した92年バルセロナオリンピック(五輪)男子71キロ級金メダル、古賀稔彦さんが「功労スポーツマスター」の称号を受けた。この日は長男の颯人さん(23=慶応高教諭)が出席。「平成の三四郎」と呼ばれた亡き父の代わりに賞状や記念品を受け取り、改めてその偉大さをかみしめていた。

 功労スポーツマスターは、日本スポーツ界の発展に著しい貢献をした人に授ける称号で、受賞者は13人目。京都・伏見工(現京都工学院)時代に花園制覇をした高校ラグビーの名将、山口良治氏らが名を連ねている。式典を終えた颯人さんは「お世話になった日体大から父が名誉ある賞を受けて大変光栄です」と感謝した。

 生前の父について颯人さんは「本当に最後の最後まで病気と闘っていた」と振り返り、亡くなる前日に強く手を握ってくれたことを印象的なことに挙げた。「(父は)試合で勝ったり負けたりする中でも、いつも次に向けたアドバイスをくれる。怒られたことはなく、いつも優しかった」。反面教師にすることはあったかと問われ「ない」ときっぱりと答え、ここまで育ててくれたことへの感謝を惜しまなかった。

 父の背中を追い掛けながら、今後も柔道家としての道を歩む。「目の前の1戦1戦に集中して、さらに上を目指して戦っていきたい」と力強く語っていた。

【平山連】

古賀颯人さん、父稔彦さん最後まで病気と闘っていた - 柔道 : 日刊スポーツ

 

 

 

古賀さん次男玄暉が優勝 悲しみ耐え「何としても」
[2021年4月4日14時38分]

 表彰式で涙目で天を見上げる古賀玄暉(撮影・峯岸佑樹)

表彰式で涙目で天を見上げる古賀玄暉(撮影・峯岸佑樹)

 

 

優勝インタビューに応じる古賀玄暉(撮影・峯岸佑樹)

優勝インタビューに応じる古賀玄暉(撮影・峯岸佑樹)

 

 

1回戦で福田大悟に勝利した古賀玄暉(撮影・峯岸佑樹)

1回戦で福田大悟に勝利した古賀玄暉(撮影・峯岸佑樹)

 

 

<柔道:世界選手権代表最終選考会兼全日本選抜体重別選手権>◇最終日◇4日◇福岡国際センター

 先月24日に53歳で死去した92年バルセロナオリンピック(五輪)男子71キロ級金メダルの古賀稔彦さんの次男で、18年世界ジュニア60キロ級覇者の玄暉(22=旭化成)が涙の優勝を飾った。決勝は20年講道館杯3位の竪山将(パーク24)と対戦。6分を超える延長の末、3試合連続で一本勝ちした。亡き父への恩返しのため最後まであきらめず、粘り強く戦った。

 試合後の表彰式では涙目で天を見上げ、その後のインタビュー取材に応じた。

 「率直にうれしいという気持ちが一番。いろいろあったけど、絶対に優勝するという気持ちで戦った。父には社会人になってから恩返ししようと思ったら、その前に亡くなってしまって…。できるはことは結果で恩返しなので、1つ1つの大会を優勝して、24年パリ五輪の金メダルを目標にしたい。帰ったら父には『まだまだ恩返しできてないけど、少しずつ次も頑張ります』と伝えたい」

 準決勝は、日体大の先輩で19年講道館覇者の青木大(パーク24)と対戦。最軽量級では長身同士の対決となり、青木より3センチ低い170センチの玄暉が序盤から積極的に攻撃を仕掛けた。開始4分に、捨て身技から大内刈りで一本勝ちを収めた。

 1回戦も19年講道館杯3位の福田大悟(鹿屋体大)に送り襟絞めで一本勝ちした。

 今大会は24年パリ五輪につながる第1歩。今春、日体大を卒業した玄暉は、父が亡くなった悲しみに耐えながら、この日のために毎日稽古に励んできた。平成の三四郎に「結果で恩返しする」と誓っていた。

 

古賀さん次男玄暉が優勝 悲しみ耐え「何としても」 - 柔道 : 日刊スポーツ

 

 

亡き古賀稔彦さんとV息子が肩組むイラストに「柔道界の画伯」が込めた思い
[2021年4月9日7時30分]

 

石川裕紀さんが描いた古賀玄暉と稔彦さん(右)の親子イラスト(本人提供)

石川裕紀さんが描いた古賀玄暉と稔彦さん(右)の親子イラスト(本人提供)

 

 「柔道界の画伯」こと、元日本代表の石川裕紀さん(32)は8日、18年世界ジュニア選手権男子60キロ級覇者の古賀玄暉(げんき、22=旭化成)が全日本選抜体重別選手権で初優勝したことを受け、イラストを描き上げた。

 首から金メダルを下げる古賀が、先月24日に53歳で死去した父で92年バルセロナ五輪男子71キロ級金メダルの稔彦さんと笑顔で肩を組むデザインだ。稔彦さんが創設した町道場「古賀塾」の元コーチは、4日前の大勝負について「玄暉くんの気迫ある柔道に感動した。優勝して古賀先生に恩返しするという強い気持ちが伝わってきた」と感慨に浸った。古賀は6月の世界選手権(ブダペスト)代表にも初選出され、柔道界初の親子世界王者を目指す。

 石川さんは、昨夏まで東欧に位置するモルドバ代表のコーチを務めていた。コロナ禍の影響で、現地で行動制限を強いられた昨年3月に趣味の絵描きを始めた。練習の合間を見て、柔道のトップ選手の似顔絵を数多く描いた。特徴をつかんだ柔らかいタッチのイラストはネット上で評判を呼び、東京五輪男子60キロ級代表の高藤直寿(27=パーク24)がツイッターに投稿すると賛辞の声が相次いだ。男子代表の井上康生監督(42)らもSNSのアイコンに使用している。

 32歳の柔道界の画伯は、次男だけでなく、偉大な父の背中を追い全日本選手権関東地区予選(29日、埼玉県立武道館)に挑戦する長男颯人(23=慶応高教)と、長女で19年アジアジュニア選手権57キロ級覇者のひより(20=環太平洋大)に「3人なら古賀先生の遺志を受け継ぎ、お父さんのように愛される柔道家になれると思う。次代の柔道界を引っ張ってほしい」と期待を込めた。【峯岸佑樹】

 

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