10月23日(土)
思ったよりもあったか土曜日
ママ&マナそしてサトの3名は
午後から掛川城に行ってきました。
自分は通常勤務で
(本来は土曜日は休暇ですが出社)
さとしくんは
このまえ行った「カマキリの公園」に
(22世紀の丘公園)
行きたかったようですが
もうバッタもいなくなる季節が近いしね。
天守の断面図
高知城の天守は望楼型天守の典型である。
外観は4重、内部は3層6階建ての建物で、入母屋造りの屋根の上に望楼を載せている形である。
天守最上階には、初代藩主一豊が、先の居城である遠州掛川城を模して造ったといわれる廻縁高欄が付けられているが、この形式は、当時の四国では高知城のみに見られる極めて珍しいものであった。
構成上から見ると、高知城天守は小天守や付櫓を伴わず単独で建つ独立式天守と呼ばれるものである。
概 要
もともとは掛川城の東500mほどの所にあった掛川古城、戦国時代に駿河守護の今川氏親が近江支配の拠点として朝比奈泰熈に命じて北東の小高い丘に築かせたといわれている。
一時は徳川家康が支配していたが、全国を平定した豊臣秀吉により配置された山内一豊が、天正18年(1590年)、城下を整備し天守を建てるなど近世城郭へと改修した。江戸時代は譜代大名の居城になり栄えた。
城郭構造は平山城。
天守は、安政元年(1854年)の東海大地震により損壊し再建されなかった。
現在の天守は、山内一豊が転封した高知城と同じであったという記録をもとに、平成6年(1994年)、望楼型三層四階天守として木造で再建された。
現存する建造物は二の丸御殿、太鼓櫓、大手門番所など。二の丸御殿は国の重要文化財に指定されている。
再建された建造物は、木造で再建された天守、復興された大手門、四足門(よつあしもん)など。
別名は雲霧城(くもきりじょう)、松尾城など。
安政元年(1854年)の東海大地震により天守など多くの建物が損壊、再建されることなく明治維新を迎え、明治2年(1869年)に廃城となった。天守台や本丸一帯は公園になっていたが、掛川市民の熱意で天守が日本初の木造復元天守として再建された。
平成18年(2006年)には日本100名城に選定された。
そうです、、
勤め先は掛川市内にあって
そこで、インフルエンザ予防接種を
家族全員一列になって
注射していただきました。
次回は3週後に2回目の接種、、
午後の同時刻に掛川で注射です。